-個性と構成に関する論

個性という言葉が実に曖昧だと常日頃思っていたのでまとめてみた
あとコピーなどに関する論も同時に展開していきたい

無個性に見えるのは何故かということ、
オーダーを複雑にしたり新しい技を入れたりで個性は得られない
ということをもう一度しっかり考え、ある程度まとまってきたので投下してみる


■個性とは

@「単一性」
「単一性」というものはその本人しか持ち得ない要素
手癖であったり、手の形や撮影環境であったりなど

それは操作することはできないし、良いも悪いもない
万人に備わっているもの

A「キャラクター性」の確立
「キャラクター性」というものは各人のオーダーの傾向のこと

ペン回し界ではここに様々な名称がつけられている
コリアンスタイルだとか、古参っぽいだとか、zktくさいだとか
小技厨、大技厨、etc...

この二つを引っくるめての個性だと思う



キャラクター性というものはある程度操作が可能である
ここで大きく個性は変動するが、
個性を他人と全く同一にすることは単一性というものが存在する限り不可能である

つるぎさんっぽい構築でペン回しをすることは可能であるが
つるぎさんのペン回しをすることは不可能である
こんな感じ

つまり、個性が100%オーダー(キャラクター)だけで成り立っているわけではないのだ
ここを大きなポイントとして掲げる

100%オーダーで個性を形成できるなら、オーダーが個性であるなら
オーダーによって単一性も示せなければならない

しかしそれは実に難しい
一度FSとして発表してしまえば、今の時代なら誰でもコピーできるだろうからである

ぴーむあたりになればまた別かも知れないが
オーダーで単一性を示すにはそのくらいが必要だろう

しかし同じ量練習すれば誰かができそうだ
オーダーで完全な単一性を示すのはやはり無理なのかも知れない

オーダーに組み込まれる新技であったり新コンボであったり
それらで単一性を示すこともこれまた難しい

先程と同じで世に出せば誰かが真似する
これではやはりオーダー、もっと細かく技というものにしても
それは本人のみが持ち得る要素とは言えないのだ

個性を形成する要素になり得ないかというともちろんその限りではないが
全くイコールであるとも言い難いということだ

個人のもつ単一性によってキャラクター性はより引き立てられ、個性は形成される



■個性的であることと無個性であること

無個性とはどういう状態なのだろう
※無個性と書いてはあるが、完全に無個性であるということではない
 他の個性的な人と比べると個性が弱いと、そういう意味合いで使っている

少し分かりにくいので
まず人間で言う無個性とは何だろうということから考える

全員がLoftの白仮面に同じスーツ、同じ髪型となればこれは無個性であろう
よほど注意していない限り個人を見分けるのは難しい
素の自分(フェイス)というものを仮のもの(マスク)で覆い隠すことで、個性は消える

私がキャバ嬢の顔が全て同じ顔に見えるのもそのせいかも知れない
素の顔(フェイス)を化粧(マスク)で理想の形に作っているからだ

これをペン回しに置き換えると
手癖などの「単一性」が「フェイス」にあたり、オーダーなどの「キャラクター性」が「マスク」にあたる

無個性なFS、無個性なスピナーというのは
次のどちらかであろう

@「マスク」を常にとっかえひっかえしている人
A「マスク」を飾りすぎることで「フェイス」を過剰に覆っている人

@について
幾らか仮面があるとしよう
毎日同じ仮面をつけていれば「誰」だということはある程度分かる
毎日仮面を変えられると、その人をしっかり覚えられない

ペン回しで言うと、常に新しいスタイルや技、構成を求めて模索しているということ
これは全く悪くないし、むしろ良いことである

しっかり覚えられないというよりは、その人のはっきりとしたイメージが浮かびにくい
私は「計算さんのFS」と言われて「一般的な計算さんの雰囲気のFS」が浮かばない

常に新しい切り口を持っていて、自身尊敬している素晴らしいスピナーであるが
個性的なスピナーというよりは、独創的なスピナーであった


Aについて
仮面を飾ることで髪型なども見えなくなり
同様に服も飾り豪華になっていけば、ある種のステレオタイプが形成される
一人しかいないのであればこの上なく個性的であるが
沢山いれば「豪華な人」というステレオタイプにしか映らない

例を挙げるとWT2011の各国のFSとか
これに関しては何もいうことはあるまい

このどちらかの状態にある人が無個性なペン回しに陥っている可能性が高い
しかしこの陥っているというマイナス表現はよくない

このどちらとも、良いことでもあるからだ
@は奇抜で独創的な姿勢を常に持っていると言うこと
Aは技術を追求すること

つまりこれをどうとらえるかで、個性尊重派か技術追求派に分かれる

いつも同じマスクを使い、微妙に表情や細部やちょっとした装飾を変え
少しフェイスをのぞかせるような、その演技力で勝負するか
新しいマスクを作り続けたり、マスクの豪華さを極めるか

どっちも面白いことだ
どちらが自分にとって良いかという問題である



■コピーとその可能性

コピーできるから悪い、できないから良い
という論は(そもそも理解し難いのだが)既に崩れている
練習さえすれば一定の技術がある人なら誰でもコピーできるからだ

この「コピーすること」の意義は何なのだろう
先程の個性に関する論だと、いわゆる「完コピ」は無理である

他の目的として挙げられるのは
自分の技術力の証明であったり、単に趣味であったり

自分はここに新しい可能性があるのではないかと考えている
というのも、「創造すること」は「摸倣すること」の上に成り立っているからである

ペン回しを始めた頃を思い出せばよい
自分の表現なんて出来ただろうか、いや出来るはずはない
誰かのペン回しを真似して、技術をつけて、自分の表現を探す
何につけてもそうだ

ある種の意図を以って、誰かのオーダーを使って
「表現する」ことができるのではないか
世の中にはオマージュという形のアートも多数存在している

コピーをその目的とするのではなく、コピーを目的の手段とする
模倣することで、創造するのだ

一見矛盾しているように思えるかも知れない

先程、個性は個人の単一性がある限り摸倣不可であるとした
がキャラクターは操作可能である、つまり摸倣可能であるということ

つまり誰かのマスクを借りて、自分の表現に取り込んでしまおうといったものだ
コピーでありながら、自分のFSになる

こうなるとコピーに新しい評価軸や楽しみが見えてきそうである
単に似ているかどうかという行為だけでなく、ある種の創作性も秘めているのではないか

自分が、その人として、その人を芯から演じ切ろうとするか
自分個人として、その人をアレンジするか

思い返せばコリアンは既にやっていたように見える
オーダーは全く同じだが、オリジナルに媚びることのない様子
オーダーそのもののアレンジもやっていた

誰かのオーダーのアレンジまでいくと楽しみは一層増えそうである
これも一種の摸倣を手段とした表現であろう

だからどんな人であろうとFSをコピーされることを恐れてはいけない
コピーできないようなFSを組む魅力もないわけではないが

いかなる時でも自分のFSは1本だけである
しかしそれはオーダーによるものではない

オーダーが決めるのはある程度の個性の方向性である
演じるのが人間である限り、個性的だ
その強さはあるのだが

だからコピーを恐れる必要も考え込む必要も、本当はないのかも知れない





11/02/02 turugi